推しのグループアイドルには推しメンがいないといけないという昨今の風潮

自分にとっておニャン子は活動当時はとても曲自体に向き合って聴ける状態ではなく得体の知れない「おニャン子現象」自体に嫌気もあったせいで一部を除いて「へたくそ、聴く価値無し」で片付けてしまっていたのだが、今になってやっと曲を評価できるようになった。河合その子も渡辺美奈代も、当時は絶対にありえないと思っていたのに今は素直に聴けるようになったし、いい曲だと思えるようになった。これはなんなのだろう。
千奈美に、おニャン子の路線を踏襲していた乙女塾は「現象」というほどのブームにならなかった結果、Wink南野陽子と同じ並びで、活動当時から曲自体を楽しむ対象として捉えることができていた。
それが契機となって、今でも自分は、ハロプロやらAKB48やらに(贔屓のメンバーはもちろんいるけれども)曲主体でハマっているのかなと思う。

本題。
だから「Berryz工房ファンと℃-uteファンの重なりは少なく、ファンには特定の推しメンがいて他のメンバーにはあまり興味が無いことは普通だ」というような論調は、事実を分析したものであるとは思うが、違和感を覚えてしまう。曲そっちのけで○○ちゃんがいたから売れなかったとかいう責任のなすりつけあいとか、PVで自分の推しメンが何秒しか映っていないから干されてるとか、合同コンだと○○ちゃんの出番が減るから反対だの、そんな論争になんの意味があるのかと思ってしまう。まぁ、合同コン反対はわからないでもないが、「○○は寄生してくるな」というたたきあいになるとそれは言いすぎだろう、と思う。歴史的にBerryz工房℃-uteは同一起源なのだから(一人を除いて)、一緒にライブを開催することは意義深いことであり、決して不自然ではないと思うのだが。そういう(推しメン至上主義的な)考え方をする人がいることは認識しているけれど、あまりに度が過ぎると思想が違いすぎて理解することはなかなかに困難だなと思う。現場で「推しメンは誰?」と聞かれる文化にも自分はどうしてもなじめないし。一応Berryz工房では熊井ちゃん℃-uteでは愛理ちゃんと答えるようにしているけれど(これ自体嘘ではないし)、だからといって熊井ちゃんと愛理ちゃんのことにとても詳しいわけでもないから、それ前提で話が進むと困るし。そもそも熊井ちゃんと愛理ちゃんはまったくキャラが違うじゃないかと言われたら弁解のしようもない。
私はおかしいのかな(苦笑)。